2020.05.17

フィリップ・ペラキスとダイネーゼ

マウンテンバイクにおけるダイネーゼの歴史は、90年代の初めに始まりました。

生まれたばかりのスポーツの若きアスリート、フィリップ・ペラキスは、ケルンで開催されたモーターサイクルショーのダイネーゼのブースに現れ、創設者であるリノ・ダイネーゼと話をしたいと頼みました。

彼は、モーターサイクル用のダイネーゼのセーフティジャケットを持っており、母親の助けを借りて、カーボンファイバーのプレートを追加で取り付けて、自転車用として使用していました。

手作りの実験的なジャケットでしたが、一方で、セーフティの必要性が高まっていることを表していました。当時マウンテンバイクライダーが利用できたのは、クロスカントリー向けのようなものだったのです。

こうしてフィリップ・ペラキスは、ダイネーゼとのコラボレーションを確立しました。
アスリートのニーズと、リノ・ダイネーゼの直感があいまって、ダウンヒル専用のワンピーススーツ「オーバーブースト」が誕生したのです。

この新しいスーツは、肩、肘、膝、太もも、胸、首などの露出の多い部分に、ライクラと複合素材のプロテクターを組み合わせたものでした。

バックプロテクターは、1979年からモーターサイクルの世界で使用されていたものが流用されました。

フィリップ・ペラキスはすぐに有名になり、その派手なルックスと着こなしが彼の特徴の一つとなりました。
彼は"宇宙からマウンテンバイクの世界に連れて来られた人"のように見え、「宇宙飛行士」と呼ぶ人さえいたほどです。

フィリップ・ペラキスは、マウンテンバイクで時速100kmを超えた最初の人物です。
彼は、カリフォルニアのマンモスマウンテンで行われた伝説のレース、マンモスカミカゼでそれを達成しました。

カミカゼは80年代末に開催されたレースで、最もクレイジーなダウンヒルレースのひとつとして誰もが覚えています。
ライダーたちは、最低限のサスペンションのみを備えたバイクに乗って、3000メートルの高さにある山の頂上から、火の海に身を投じて降りていきました。

他にも、フィリップ・ペラキスはフランスのヴァールで時速200km/hを記録し、常にダイネーゼのプロテクターに守られていました。

プロテクターは絶対に必要なものであり、かつパフォーマンスに影響を与えないことが証明され、多くの人がダイネーゼのブランドを身につけるようになりました。

そして続く1995年、9月19日にドイツのキルヒサルテンで開催されたマウンテンバイク世界選手権。
当時19歳だったニコラ・ブイヨズがレースに勝ち、ダウンヒルエリート世界選手権で7つのタイトルを獲得しました。

ニコラ・ブイヨズは、ダイネーゼを着用した初のチャンピオンであり、ダウンヒルの世界的なシーンでブランドを前面に押し出した人物でもあります。

90年代末から2000年代初頭にかけては、すべてのトップライダーが、ダイネーゼのロゴである"スピードデーモン"を着用していました。

ファビアン・バレルからセドリック・グラシア、ショーン・パーマーからアンヌ=カロリーヌ・ショソンまで。

この勢いに乗って、プロテクターの全シリーズが開発されました。

マウンテンバイクは重要なアクションスポーツの一つになりつつあり、わずか数年前のモデルが時代遅れになってしまうほど、急速で容赦ない進化に直面していました。

アパレル、特にプロテクターは、それに追いついていかなければなりませんでした。
このような理由から、初期に使用されていたシンプルなプロテクターから、より高度な技術へと移行することになりました。

ジョイント式のニーガード、これまで以上に快適で、軽くて効果的なセーフティジャケット、科学研究から生まれた新しいソリューションや最先端の素材など。

このプロセスが、ハードプロテクターの代わりにソフトプロテクターを導入することにつながり、アスリートが最高のパフォーマンスを発揮できる状態になり、トップライダーのあらゆる要望に応えることを可能としました。

チャンピオンたちの言葉は、ダイネーゼコレクションの基本的な指標でもあります。そしてチャンピオンたちの直感が、全てのライダーにベネフィットを与えるのです。

多くの場合、プロトタイプから素晴らしいアイデアが生まれます。

フィリップ・ペラキスが、母親の助けを借りて自宅でモーターサイクル用プロテクターを調整していったように、スポーツの進化と、ファンの心を永遠に変えてしまうようなインスピレーションは、ほとんどが最も過酷なテスト場や、最高レベルの競技から生まれるのです。

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